…
「聞こえてますか?小林さん。」
…先生の声がすごく遠くに感じた。
聞こえないよ。
…うそだ。
すぐには言葉の意味がわからずに、何度も頭の中で繰り返してみた。
「小林さん?」
佐々岡先生は私の肩を叩いて、もう一度呼び掛ける。
そして顔で私の顔を覗き込む。
聞こえない…
聞きたくない…
私は目を合わさないように逸らしてしまった。
窓の外に視線をおくった。
今日は風が強い。
せっかく咲いた桜の花びらが散っていく。
散っていく…
…
佐々岡先生が現実に引き戻す一言を呟いた。
「もう一度言います。お腹に穴をあけようと考えています。」
私は顔を横に向けたまま。
それでも先生は先程と同じ説明を続けた。
私を説得するために。
「口から食べるのに、まだムセてしまってます。食べ物が肺に入ると肺炎が悪化する危険があります。」
後ろで組んでた手を離す。私の鼻を指差した。
「鼻に入れてる管も抜けかかると、肺に流れてしまう危険があるんですよ。」
陽子も突然の話しに戸惑っていた。
顔色が変わっていた。
私もきっと同じ顔をしてるんだ。
「お鼻の管と同じなんですよ。代わりにお腹に管を入れるんです。」
看護師さんがパンフレットを開いた。
先生がパンフレットの中の絵を使って説明を続ける。
「管は胃ろうっていいます。そこから栄養や薬を流します。」
真剣な目だった。
冗談と言ってほしかった。
一緒って…
何と?
一緒だったら、いつくも穴開けていいのか?
「お腹から穴を開けて胃に管を通します。そして風船みたいなものを膨らませて固定します。」
パンフレットには内視鏡を使って短い時間で終わると書いてある。
こんなものがお腹に…
「食べれるようになったら、お腹の管は抜けれます。穴は塞げますし元通りになるんですよ。」
喉の穴の時も同じように言ってた。
だけど、まだ抜けてない!
穴も塞がってない!
先生の言葉がすごく無責任で他人事に感じた。
怒りが込み上げる。
穴を開けるなんて…簡単に言うなよ…
これ以上私の体をメチャクチャにしないでくれ…
手が振るえ、心が震え、涙が一滴零れた。
「肺の病気を悪くしないためなんですよ。」
それは事実かもしれないが、冷たい言葉だった。
私は、結局返事ができなかった。
今は喉の穴にリハビリ中でも、視線が集まる。
だけど…
[服を着てたら隠れますから目立ちません]
パンフレットのその説明に腹がたった。
そんな問題じゃない。
そんな問題じゃないんだ。
予定日は明後日。
もう予定まで決められていた。
先生がもし自分の立場だったら「うん」と言うのだろうか?
私の今の気持ちわかるのだろうか?
押さえれない感情が次々溢れてくる。
失望、悲しみ、不安、不信、怒り…
順調にいっていると思ってたんだ。
先生の帰った後、ぼーっと天井を見つめていた。
入院して1ヶ月半。
長いようだけど早かった。
思い出していた。
掌に佐々岡先生の温もりが残っている。
誰もいなくなった病室に残っていた先生。
優花ちゃんの言葉を思い出した。
『病気は良くなってばかりじゃないんです。良くなったり、悪くなったりを繰り返します。…焦らないでくださいね。今日悪いのが突然、明日に治るわけじゃないんですから。』
私は馬鹿だ。
自分の感情を優先して。
…いろいろ考えてくれて、必要だから先生は言ってくれてるのに。
私は先生に命を助けられた身体。
『信じてください』
佐々岡先生の声が、頭の中でコダマする。
…はい。
信じたい。
私は一人じゃ歩けない。
一人じゃ生きられない。
信じないと歩いていけるはずがない。
信じます…
だから身体を元通りにしてください。
元の小林裕に…
どうか、戻してください…
私は決意をし、ゆっくりとナースコールのスイッチを押した。