お髭は何度かお願いしても、何故か剃らしてくれなかった。
ご飯もやっぱり、ほとんど手をつけないまま。
食べたいものを尋ねても、無いと首を左右に振ってしまう。
私は、足浴と車椅子で散歩に行くぐらいしか出来なかった。
車椅子に座ると、ロビーや中庭でしばらく過ごす。
会話は出来なくても、人の集まるところが好きみたいなんだ。
悲しそうな顔が、少し和らいでるように見える。
…そうだ。
私は思いきって師長さんに、大部屋への部屋移動を相談してみた。
師長さんも、原井さんのリハビリや食事が進まない事を気にしていた。
「…確か同じ脳梗塞で麻痺のある方の部屋が空いてたわね。」
師長さんはそう言って、しばらく考えこんでいた。
翌日、原井さんは4人部屋へ移ることになった。
甥に電話で説明し、お部屋代がかからないと知ると二つ返事でOKがでた。
洗濯物については、『そのうち行きます。』とだけ。
相変わらず溜まったままの服やタオル。
原井さんは着るモノがなくて、病院の服を貸し出ししついた。
身寄りのない原井さんは、あの男性しか頼る相手はいない。
原井さんは孤独感が強かった。
「宜しくな。」
「こんにちわ。」
「どうも。」
同室者は坂さん、樋口さん、田辺さん。
坂さんは脳梗塞。
原井さんと同じく右手足の麻痺。
田辺さんは慢性硬膜下血腫の手術後。
樋口さんは脊椎損傷。
20代の若い方だけど、下半身の強い麻痺で寝たきりになっていた。
原井さんは入室時、目を会わさず軽く頭を下げた。
「さあ、頑張るか!」
「はーい、行ってらっしゃーい。」
皆さん、明るい方だった。
そしてリハビリに真剣だった。
前を向いて、不自由な身体を一生懸命動かす。
若い樋口さんも、少しでも自分の事は自分でしようと最低限の援助だけ受けていた。
「あの…病気、辛くないんですか?」
私は思わず聞いてしまった。
聞いた後に、何て失礼な質問だとすぐ気付いた…
でも、もう取り消せない。
「ああ、辛いよ。当たり前じゃんか。」
少しの沈黙のあと…
「麻痺ってどんなのか判るか?自分の両足の感覚が何もないんだ。」
樋口さんは、苦笑いしながらギュッと足をつねった。
つねった痕が赤くなる。
「ただ重たいんだ。他人のモノみたいな感じで。」
私の横で話しを聞きながら、原井さんは左手で自分の右手を触っていた。
原井さんも同じなのかな…
自分の腕や足が別のものみたいで、辛いのかな。
「失禁さえわからないんだ。はははっ、この歳でオムツだぜ?」
興奮して、声が少しずつ大きくなる。
樋口さんの脊椎損傷はバイク事故が原因。
相手の車が信号無視して受傷し、それがきっかけで下半身の機能を失った。
「あまりに突然で実感がなかったさ。」
唇をグッと噛み締める。
「なんで俺だけが…こんな目に…」
…
私はなんて馬鹿なんだ。
辛くて当たり前の事、なんで聞いてしまったんだろ…
「ごめ…」
「でもな、落ち込んでても治ってくれない。何も変わらない。それが現実なんだよ。」
首を左右に振って、口さんはニカッと笑った。
「惨めでも、足掻くくらいは精一杯しないとさ。」
横で話しを聞いていた原井さんの表情が変わった。
「単にそれしか、できないだけなんだけどね。」
樋口さんは言ったあと、照れ隠しするように頭をポリポリ掻いてみせた。