5月5日土曜日(曇り)
「ねぇねぇ、ぱぱぁ。鯉のぼりが欲しいよぉ。」
綾が私の腕を引っ張りねだる。
「綾は女の子だからお雛様なんだよ。ひな祭りしただろ?」
綾が私の言葉に、ぷぅっと両方の頬っぺたを膨らませた。
「じゃあ、あやは男の子になる。」
「あはははは。そうだね。綾が男の子になったら鯉のぼり買ってあげるよ。」
私は笑いながら綾の頭を撫でた。
―次の日だった。
「何だ!何でそんな事したんだ。」
「一体どうしたのよ!」
私と陽子は驚いて、大声を出した。
「今日から綾は男の子なんだよ。」
…
私も陽子も言葉が出てこず綾を見つめていた。
綾の足元にはハサミが落ちていた。
床には髪の毛が散らばっている。
綾の頭は…でこぼこのザンギリになっていた。
女の子らしくと、一生懸命伸ばした髪は見る影もなくなって…
その姿を見て、ただ笑うしかなかった。
…また、夢。
…最近なぜか昔のことばかり思いだしている。
昔の事ばかり夢みている。
死ねときは昔のことが走馬灯のように甦るって言ってたっけ…
以前より眠る時間が少し長くなってる気がする。
意識が無くなる時間が増えたから痛みで苦しむ時間は減ったけど
…それが怖い
死が
一歩、一歩
忍び寄って来てるみたいで
さっきの夢。
確か、綾が4歳の時のこどもの日だったかな。
綾の長い髪がバッサリ切られて
あの時以来、鯉のぼりが上がるようになった。
…って言っても、ウチがアパートだから親父の家の庭を借りてなんだけど。
今年、小学生か。
大きくなったなぁ。
予定日を過ぎてもなかなか生まれて来なかった綾。
生まれる前から心配ばかりさせて。
生まれて、ミルクもあまり飲まず体も小さなままで。
生まれてからも結局、心配ばかりさせられた。
陽子が居ないと、いつまでも泣き続けて。
決して諦めない頑固なところがあった。
遠方の知り合いの結婚式で綾を3日程、母に預けてたらミルクのまず泣いて大変な事になった。
ったく、誰に似たんだか。
今でも、一度決めた事は譲らないんだよな。
自分が悪くないと思ったら絶対謝らない。
表情が固まり口をへの字にして黙りこむと決して自分からは口を開かない。
いつも、周りの方が根負けしてしまう。
なあ、綾。
知ってるかい?
〈綾〉
この名前に決まるまで、パパはものすごく悩んだんだよ。
名前の本やインターネットを毎日開いていた。
個性的な名前過ぎたらイジメられないか。
流行りの名前で周りと被るのもどうか。
画数はいいものか。
名前の意味を聞かれた時、きちんと答えれるものか。
候補を出しては消して。
候補を出しては迷って。
いっぱいいっぱい悩んだんだよ。
(あ)は五十音順の始まりの字。
(や)は私の裕の音読みの「ゆう」、そして陽子の「よう」でや行の言葉ができる。
そして【綾】は
物の面に表れたさまざまの線や形の模様。ものの筋道や区別。
パパとママが出会った事で表れた証。
始まりの言葉。
綾。
お前が無事に小学生になれた事
パパとママは本当に嬉しいよ。
とにかく定期健診の度に同じ年の子に比べて発達が遅いって言われ続けた。
ご飯もあまり沢山は食べない。
言語発達も遅れていて。
市役所からは
「きちんとご飯食べさしてるんですか?」
いつも発達の遅れに対して指摘してきた。
親が一番気にしてるに決まってるのに…
なんで、あんなに無神経にあれこれ言ってくるのか…
健診に行くのが憂鬱で仕方なかった。
保育所に入園したときも一回り小さく目立っていたんだ。
それでも
綾は綾のペースで成長していってくれた。
「パパぁ、ばんがれ。」
仕事に行く時には綾の言葉に力をもらったんだ。
寝相が悪くて布団蹴飛ばし身体が一回転していたり
うつ伏せの姿勢で、お尻だけピョコンと突きだしてたり
挙げ句のはてには、何故かいつもズボンとパンツを脱いで下だけスッポンポンになってたり
毎日、毎日同じ事で怒ったり
育児に自信なくしたりする事も再三あるけど
寝顔は本当に可愛い。
綾を守るためなら
何だって耐える自信があるんだ。
綾を守るためなら
何だってする自信があるんだ。
私や陽子の言葉や仕草を真似したり
何でもないことに驚かされたり、笑わせられたり
知らない内にどんどん成長していく
子供の成長がみれる事が親として一番の楽しみ。
そして一番の幸せ。
…だった
今の私は小学生になった綾の姿を見れず…
ただ眠っている。
病気との闘いに勝つ事ができず
娘の呼び掛ける言葉にさえ答える事ができず
この先も
綾が大きくなって
中学生になり
高校生になり
成人式を迎え着物を着て
彼氏ができて
結婚してウエディングドレスに身を包まれて
綾の子供が生まれて…
私はそれを一番そばで見守っていく。
家族を
綾と陽子を私が守る。
はずだったのに
些細な日常が
私には与えられなかった。
悔しいよ。
何でなんだよ…
ただ、綾の成長していく姿を見ていたかった…
私が生きていた形ある証。
綾。
私は綾が娘で幸せだった。
綾。
もしかしたら綾が大きくなった時、パパは傍に居ないかもしれない…
ごめんな。
綾が嫌いになったわけじゃないんだよ。
だから、姿が無くても
パパはずっと綾を見守ってるからな。
パパはお前を愛してるよ。