「病院に行けば、いつでも診てもらえる」
「大きな病院に行けば、入院するベッドはたくさんある」
私たちは普段、なんとなくそう思って生活しています。しかし今、全国各地の病院で、ある静かな異変が起きています。それは、「ベッドは空いているのに、患者さんを入院させられない」という状況です。
大きな建物のなかで、丸ごと使われなくなって電気が消えているフロア(病棟)。その背景にあるのは、建物の老朽化でも、患者さんが減ったからでもありません。最大の理由は「看護師が足りないから」です。
なぜ、看護師が足りないだけで病棟が丸ごと閉まってしまうのか。そしてそれが、どうして病院の「赤字」に直結してしまうのか。ニュースの向こう側で起きているリアルな現実を、少しのぞいてみましょう。
病棟が閉まる――その背景にあるのは、たった一言では片づけられない「人手不足」
「人手不足」という言葉は、コンビニや飲食店など、どんなニュースでもよく耳にしますよね。しかし、病院における人手不足は、私たちの命や健康に直接かかわる、とても深刻な問題です。
49床が動かせない現実。病棟閉鎖は“苦渋の選択”
京都府にある「京丹後市立弥栄(やさか)病院」という公立病院の例を見てみましょう。この病院には199人分のベッド(病床)がありますが、そのうちの4分の1にあたる「49床」が現在使えなくなっています。病棟の1つを、丸ごと閉鎖せざるを得なくなったためです。
理由はシンプルで、「そのベッドに入院してくる患者さんを、安全にお世話するだけの看護師がいないから」です。
病院には「この人数の患者さんに対して、必ずこの人数の看護師を配置しなければならない」という国の厳しいルールがあります。これは、患者さんの命を安全に守るためのルールなので、絶対に破ることはできません。つまり、どんなに立派なベッドがあっても、看護師が1人減れば、受け入れられる患者さんの数も減らさざるを得ないのです。
「とにかく人なんです」――事務長の言葉は現場の悲鳴
「とにかく人なんです。医師もですが、看護師も不足しています」
これは、弥栄病院の事務長(病院の経営や運営をまとめる責任者)の言葉です。
医療の現場は、最新の機械や薬だけで動いているわけではありません。24時間、患者さんの顔色を見て、点滴を管理し、声をかけ、異変に気づくのは「人」です。現場の看護師たちは、限られた人数のなかで必死に患者さんを支えていますが、それにも限界が近づいています。
育休取得は素晴らしいこと、でも回らないジレンマ
では、なぜ急に看護師が足りなくなったのでしょうか。弥栄病院のケースでは、約160人いる看護師のうち、11人が「育児休業」でお休みをとっています。
子育てのためにお休みをとるのは、働く人として当然の権利ですし、社会全体で応援すべき素晴らしいことです。しかし病院側からすると、ギリギリの人数で回していた現場から、一気に11人のプロフェッショナルが抜けてしまうことになります。
すぐに新しい人を雇えればいいのですが、地方の病院になればなるほど、新しい看護師を見つけるのは非常に困難です。「お互い様だから」と残ったスタッフでカバーしようとしても、夜勤の回数が増えたり、休みが取りづらくなったりして、今度は頑張っているスタッフが倒れてしまいます。
だからこそ、病院は「これ以上、現場に無理はさせられない」と、苦渋の決断で病棟を閉めるのです。
看護師が足りないと、病院はここまで弱る
病棟がひとつ閉まる。それは単に「使わない部屋ができた」という話では終わりません。病院という大きな組織にとって、それは経営を揺るがすほどの巨大なダメージになります。
1病棟閉鎖で「年間3億円」の収入が吹き飛ぶ
病院の収入の多くは、患者さんが入院して治療を受けることで発生します。ベッドが使えないということは、そこに入院するはずだった患者さんを受け入れられないということ。弥栄病院の場合、1つの病棟を閉じたことで、なんと「年間約3億円」もの収入が吹き飛んでしまったといいます。
3億円と聞いても少しピンとこないかもしれませんが、これはたくさんのスタッフのお給料や、新しい医療機器を買うためのお金です。飲食店で例えるなら、「お店の半分に鍵をかけて、お客さんを半分しか入れないのに、家賃や厨房の維持費は今まで通りかかっている」ような状態です。赤字になるのは、火を見るより明らかです。
人件費、委託費、光熱費…「頑張り」だけでは埋められない経営
病院の経営を苦しめているのは、収入が減ったことだけではありません。出ていくお金(支出)もどんどん増えています。
いま、世の中のあらゆるものが値上がりしていますが、病院も例外ではありません。24時間稼働し続けるための「光熱費」は莫大な金額になりますし、医療機器の修理代、清掃や給食をお願いする業者への「委託費」も上がっています。
病院の収入(診療報酬といいます)は国によって細かくルールが決められているため、スーパーのように「電気代が上がったから、今日から診察代を値上げします」というわけにはいきません。支出ばかりが増え、収入は増えない。そこに「看護師不足による病棟閉鎖」が重なることで、公立病院はどんどん赤字に追い込まれています。京都府内の公立病院でも、14病院のうち実に12病院が赤字という厳しい結果が出ています。
黒字に見えても安心できない、公立病院の“見えにくい苦しさ”
なかには「ギリギリ黒字」という公立病院もありますが、決して安心はできません。
公立病院には、利益が出なくてもやらなければならない「政策医療」という役割があります。例えば、いつ来るかわからない重症患者のための「救急医療」や、「感染症の対応」「災害時の備え」などです。これらは、お金(採算)のことだけを考えたら赤字になりやすい部門ですが、地域の安全のためには絶対に削れません。
本来の医療活動だけでは大幅な赤字になってしまうところを、自治体(府や市)からの補助金や税金を投入して、なんとかギリギリの黒字に見せている(踏みとどまっている)というのが、多くの公立病院の実態なのです。
病院がなくなると困るのは、数字の外側にいる地域の人たち
病院の経営が赤字になり、病棟が閉まる。これは単なる「病院の会社のピンチ」ではありません。そのしわ寄せを一番受けるのは、毎日その地域で暮らしている私たちです。
分娩ができる病院、救急を受ける病院が消える重み
前半でお話しした京都府の京丹後市立弥栄病院は、その地域で唯一「お産(分娩)」ができる施設とスタッフがそろっている病院です。年間約100件の新しい命の誕生を支えています。
もし、看護師不足がさらに進んで病院の機能が維持できなくなったら、どうなるでしょうか。これから赤ちゃんを産むお母さんたちは、陣痛が来ているなか、遠く離れた別の街の病院まで行かなければならなくなります。
30分、1時間の差が命を左右する地域がある
また、この病院は救急車を受け入れる重要な役割も担っています。もしこの病院がなくなれば、患者さんは車で30分、あるいは1時間ほどかかる遠くの病院へ運ばれることになります。
心筋梗塞や脳卒中、あるいは大きなケガをしたとき、治療開始までの「30分」や「1時間」は、命が助かるかどうか、後遺症が残るかどうかを大きく左右します。地方の病院がなくなるということは、その地域に住む人たちの「助かるはずの命」が危険にさらされるということなのです。
「近くに病院がある安心」は、当たり前ではない
「風邪をひいたら診てもらえる」「おじいちゃんが倒れても、すぐ近くに救急病院がある」。私たちが当たり前のように感じているこの安心感は、決して自然にあるものではありません。
24時間365日、誰かが夜中も起きて働き、ベッドを整え、薬を準備してくれているからこそ成り立っている「人の手による安心」なのです。
閉院検討のニュースは、どこか遠い話ではない
「京都の海側の町の話でしょ? 私の住んでいるところは関係ない」と思うかもしれません。しかし、この「人が足りなくて病院がもたない」という問題は、今、日本中で同時進行で起きています。
函館赤十字病院の閉院検討が映す、地方病院の共通課題
北海道にある函館赤十字病院が、来年(2027年)の3月末をめどに「閉院」を検討しているというニュースがありました。11の診療科と137のベッドを持つ、地域の中核となる大きな病院です。
閉院を考える理由は、建物の老朽化や患者数の減少に加えて、やはり「医療従事者(医師や看護師)の確保が困難になっているから」でした。通い慣れていた患者さんからは「地域に大きな病院がなければ大変だ」と、驚きと不安の声が上がっています。
国立大学病院ですら赤字――“最後の砦”も例外ではない
地方の市立病院だけではありません。高度な医療を提供し、ドクターヘリの基地にもなるような地域の“最後の砦”、国立大学の附属病院でさえ大ピンチを迎えています。
全国にある44の国立大学病院のうち、なんと「7割」が赤字に陥っています。物価や人件費の高騰が重なり、このまま国からの支援がなければ潰れてしまうと、病院のトップたちが危機感をあらわにしているほどです。
一部の病院だけの問題ではなく、日本全体の医療体制の揺らぎ
これだけ多くの病院が同じ理由で苦しんでいるということは、「病院の経営が下手だった」という個別の問題ではありません。今の日本の仕組みそのものが、現場の医療スタッフの「自己犠牲」や「無理な頑張り」の上に成り立っていて、それがついに限界を迎えてしまった、というサインなのです。
それでも持ちこたえている病院には、ちゃんと理由がある
暗いニュースばかりのようですが、希望もあります。全国で最も人口の少ない鳥取県にある「鳥取大学医学部附属病院」は、こうした厳しい状況のなかでも見事に黒字経営を維持しています。一体、何が違うのでしょうか。
鳥大病院の黒字を支えるのは、“節約”だけではない
鳥取大学病院が取り組んでいるのは「ケチケチ大作戦」と呼ばれるエコ活動です。 例えば、エレベーターは1回動かすだけで約20円の電気代がかかります。病院全体で1日に何百回も動けば、年間で約5000万円もの経費に。そこで、お医者さんやスタッフたちは、健康づくりも兼ねて積極的に「階段」を使っています。
また、医療用のゴミは捨てるのにお金がたくさんかかります。注射針などの危険なゴミと、そうでないプラスチックや段ボールをきっちり分別するだけで、処理費用を大きく減らすことができます。こうした小さな工夫の積み重ねが、大きな金額を生み出しています。
病床管理、業務改善、院内保育――人が働き続けられる仕組み
節約だけではありません。病院内に専用のシステムを入れて、どこのベッドが空いているかをリアルタイムで把握できるようにし、無駄なく患者さんを受け入れられるようにしました(これでベッドの稼働率が3%も上がりました)。
さらに素晴らしいのは「すぎのこ保育所」という、病院で働くスタッフのための24時間体制の保育所があることです。小学生の子どもでも夜間預かってくれるため、小さなお子さんがいるお母さん医師や看護師でも、安心して夜勤に入ることができます。「周りに頼る人がいなくても、夜の当直ができる」という環境が、スタッフの心を支えています。
結局、病院を回しているのは設備ではなく「人」だった
最新の医療機器を買っても、立派なベッドを並べても、それを動かすのは結局「人」です。スタッフが働きやすい環境を整え、一人ひとりの意識を変えていくこと。それが、病院を赤字から救い、地域医療を守る最大のカギであることが、鳥取大学病院の例からよくわかります。
看護師を増やす、ではなく「辞めなくていい職場」をつくれるか
ニュースを見ていると「国はもっと看護師を増やすべきだ」という意見をよく目にします。もちろんそれも大切ですが、現場の感覚からすると、もっと大切なことがあります。
| 項目 | 旧来の「負の連鎖」に陥る病院 | 鳥大病院のような「好循環」の病院 |
| 現場の状況 | ギリギリの人数で業務を回す | リアルタイムで病床や業務を管理 |
| 休みの取りやすさ | 育休や有休を取ると現場が回らない | 院内保育などがあり両立しやすい |
| スタッフの心理 | 「休めない・辞めたい」と疲弊する | 「働き続けられる」と安心できる |
| 経営への影響 | 離職 → 病棟閉鎖 → 大幅な赤字へ | 定着 → フル稼働維持 → 黒字へ |
| 地域への影響 | 救急や分娩の受け入れが止まる | 地域の“最後の砦”として機能し続ける |
採用強化だけでは埋まらない、定着支援の大切さ
新しく人を雇うのは、とてもお金と時間がかかります。せっかく入職してくれた看護師が、「忙しすぎる」「夜勤がしんどい」「子育てと両立できない」と数年で辞めてしまっては、いつまでたっても人手不足は解消しません。
「新しい人をたくさん入れる」ことよりも、「今いる人たちが、無理なく長く働き続けられる職場(定着支援)」をつくることのほうが、はるかに重要です。
現場の献身に甘えない組織づくりが、これからの病院に必要
「患者さんのために」という看護師の優しさや使命感に頼りきった働き方は、もう限界です。きちんと休みが取れて、子育てや家族の介護とも両立できて、自分自身の健康も守れる。そんな当たり前の労働環境を整えることが、結果的に「ベッドをフル稼働させ、病院の経営を安定させる」ことにつながります。
私たちにできること、このニュースをどう受け止めるか
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。最後に、医療の世界の外側にいる私たちが、この現実をどう受け止めればいいのかを考えたいと思います。
「また人が足りない話か」で流してはいけない理由
「看護師不足」という文字を見ても、これからはただの文字として通り過ぎないでください。その裏には、閉まってしまった病棟があり、赤字に苦しむ病院があり、そして「もし自分が倒れたときに、運ばれるベッドがないかもしれない」という私たちの未来が隠れています。
地域医療を支える最後の一手は、人を大切にすること
私たちにできるのは、医療従事者への感謝やリスペクトを忘れないこと。そして、コンビニのように病院を「便利使い」するのではなく、本当に必要な時に適切な医療機関を受診する(軽い風邪なら日中の診療所に行くなど)といった、小さな思いやりを持つことです。
現場を守ることは、私たち自身の暮らしを守ることです。ベッドサイドで汗を流す看護師さんたちが、笑顔で働き続けられる社会になることを願ってやみません。
参考元一覧
- 函館赤十字病院が来年3月末で閉院検討(HBC北海道放送 / TBS NEWS DIG) https://newsdig.tbs.co.jp/articles/hbc/2549311
- 国立大学病院の7割が赤字…鳥取県で大学病院の黒字経営を実現できるワケ(BSS山陰放送 / TBS NEWS DIG) https://newsdig.tbs.co.jp/articles/bss/2506013
- 京丹後市立弥栄病院 公式サイト https://www.city.kyotango.lg.jp/yasaka_hospital/index.html
- 看護職員確保対策(厚生労働省) https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/bunya/0000095525.html
- 2024年 病院看護実態調査 報告書(日本看護協会) https://www.nurse.or.jp/nursing/assets/101.pdf
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