看護師をしていると本当に沢山の人との出会いがあります。
出会いがあるから、いろんなことを気付けるから看護師になった理由の一つにあります。
忘れることのできない人が沢山います。
そのうちの一人の女性の方のお話しです。
80代のおばあさん。
はじめは右手の脱力から、1ヶ月ほどして喋りにくくなり受診。
ALSと診断され紹介にて当院の神経内科へ。
それから一年程経ち、腰椎圧迫骨折になり入院することになった。
他の病棟で数日経ったあと、僕が勤務している病棟へと移ってきた。
優しい家族の方で、毎日毎日会いに来ていた。家族みんなが心配していた。
入院して1ヶ月ほど過ぎて、個室で夜巡視時におばあさんが泣く姿を何度か見かけるようになった。
退院を目指して何度か外泊を行っていたが、呼吸症状もどんどん悪くなり状態が悪くなってきた。
文字盤を使ってコミュニケーションをとるようになっていた。
『挿管も気管切開もしたくない。』
挿管とは、呼吸が上手く出来なくなるとチューブを口や喉から入れて呼吸することです。気管切開とは、喉を切って管を入れることです。
『ごはんが食べれなくなったら死んだほうが良い。』
昔はごはんが食べれなくなったら栄養が低下し、老衰していました。
今は、鼻やお腹に管をいれて、ドロドロした栄養食を流すことで食べれなくても栄養を摂ることができるようになってます。
涙をながして、延命を拒否していた。
挿管しないと死んでしまう直前までそれは続いた。
しかし家族の願いは呼吸器をつけてでも、生きてほしいという気持ちだった。
呼吸が厳しくなり最後の最後で、おばあさんは挿管を承諾した。
挿管し呼吸器につながれた。
管を入れても胸の苦痛が続きあまり楽にならなかった。
そのせいもあったのか、管を入れた後も葛藤を繰り返していた。
管を入れたことを後悔している。と
『足手まといになりたくない』
『死にたい』
『このまま、何年も行きたくない』
文字盤で訴える。
だけど、本音をゆっくり確認すると…
『死ぬのは怖い…』
『家族ともう一度一緒に暮らしたい…』
家に帰って皆で過ごしたい…
普通の生活を願っていた…
人は死を目の前にしたときに、怖くないはずはない…
生きたいと願うにと思う。
悩み苦しみながらも、気管切開を受け入れて喉に管を入れた。
経管栄養も
『経管栄養はイヤ。植物人間になりたくない。』
と、否定していた。だけど経管栄養も最後には受け入れた。
葛藤がすごくあったと思う。
生きる怖さと死ぬ怖さ…その葛藤…
病気になった人にしかわからない、宣告された人にしかわからない苦しさが沢山あったと思う。
動けないからこそ、伝えれないからこそ僕は当たり前の事をしてあげたかった。
できるだけ、入院時と同じように話しかけた。
朝になったら、髪を整えて入れ歯をいれて顔を拭いて挨拶をして身なりを整える。
吸引するときや身体を動かすときも、できるだけ痛くないように…
だんだん、表出できなくなっても髪を櫛でとくと僅かに微笑んでくれたり、目を動かしてお礼をいってくれたりとしてくれていた。
ほどなくして、僕自身がギランバレー症候群となり寝たきりになってしまった。
復帰まで2年かかってしまい、復帰したとき僕は部署での復帰のため会う機会が減ってしまった。
久しぶりに顔をみて挨拶したとき、覚えてくれていた。
同じように笑顔を見せてくれた。
配属は違っても、時々部屋に会いに行き声かけをした。
入院してから五年ほど経ち…永眠された。
突然の事故で、何も言えないまま別れがある。
癌などの病気で、告知があり別れを言える時間をつくれるが痛みや恐怖を永く感じる別れがある。
どちらの死が望ましいのかわからない。
動けなくなっても
眠った状態になってもその人はいろんなことを感じてると僕は思う。
何をしてあげれるのか。
せめて、身なりを整えたり看護行為をするときは反応なくても声かけしたりを大切にしている。
表現が難しくなっても最後の最後まで話しかけると笑ってくれてたように見えた。
人の笑顔が好きで、看護なら頑張れば笑ってもらえる仕事じゃないかと思い看護師になった。
辛くても笑顔を見せてくれたおばあさんに、自分は何もしてあげれなかった…だけど自分にできることはいろいろとあった。
看護の難しさと大切さ改めて感じさせてもらったと思う。私にとって一生忘れれない出会いでした。
コメント