3月21日水曜日(曇り)

「聞こえてますか?小林さん。」

 

 

 

…先生の声がすごく遠くに感じた。

 

聞こえないよ。

 

…うそだ。

すぐには言葉の意味がわからずに、何度も頭の中で繰り返してみた。

 

 

「小林さん?」

佐々岡先生は私の肩を叩いて、もう一度呼び掛ける。
そして顔で私の顔を覗き込む。

 

 

聞こえない…
聞きたくない…

私は目を合わさないように逸らしてしまった。

 

 

 

窓の外に視線をおくった。
今日は風が強い。
せっかく咲いた桜の花びらが散っていく。

散っていく…

 

 

佐々岡先生が現実に引き戻す一言を呟いた。

 

「もう一度言います。お腹に穴をあけようと考えています。」

私は顔を横に向けたまま。

 

 

それでも先生は先程と同じ説明を続けた。
私を説得するために。

 

 

「口から食べるのに、まだムセてしまってます。食べ物が肺に入ると肺炎が悪化する危険があります。」

後ろで組んでた手を離す。私の鼻を指差した。

 

 

「鼻に入れてる管も抜けかかると、肺に流れてしまう危険があるんですよ。」

陽子も突然の話しに戸惑っていた。
顔色が変わっていた。
私もきっと同じ顔をしてるんだ。

 

 

「お鼻の管と同じなんですよ。代わりにお腹に管を入れるんです。」

看護師さんがパンフレットを開いた。
先生がパンフレットの中の絵を使って説明を続ける。

 

 

「管は胃ろうっていいます。そこから栄養や薬を流します。」

 

真剣な目だった。
冗談と言ってほしかった。

 

 

一緒って…
何と?
一緒だったら、いつくも穴開けていいのか?

 

 

「お腹から穴を開けて胃に管を通します。そして風船みたいなものを膨らませて固定します。」

パンフレットには内視鏡を使って短い時間で終わると書いてある。

こんなものがお腹に…

 

 

「食べれるようになったら、お腹の管は抜けれます。穴は塞げますし元通りになるんですよ。」

喉の穴の時も同じように言ってた。
だけど、まだ抜けてない!
穴も塞がってない!

 

 

先生の言葉がすごく無責任で他人事に感じた。
怒りが込み上げる。

 

 

穴を開けるなんて…簡単に言うなよ…
これ以上私の体をメチャクチャにしないでくれ…

手が振るえ、心が震え、涙が一滴零れた。

 

 

「肺の病気を悪くしないためなんですよ。」

それは事実かもしれないが、冷たい言葉だった。

 

私は、結局返事ができなかった。

今は喉の穴にリハビリ中でも、視線が集まる。
だけど…

 

[服を着てたら隠れますから目立ちません]

 

パンフレットのその説明に腹がたった。

そんな問題じゃない。
そんな問題じゃないんだ。

 

予定日は明後日。

もう予定まで決められていた。

 

 

生がもし自分の立場だったら「うん」と言うのだろうか?
私の今の気持ちわかるのだろうか?

押さえれない感情が次々溢れてくる。
失望、悲しみ、不安、不信、怒り…

順調にいっていると思ってたんだ。

 

 

 

 

 

 

先生の帰った後、ぼーっと天井を見つめていた。

入院して1ヶ月半。
長いようだけど早かった。

 

 

思い出していた。

掌に佐々岡先生の温もりが残っている。
誰もいなくなった病室に残っていた先生。

 

優花ちゃんの言葉を思い出した。

『病気は良くなってばかりじゃないんです。良くなったり、悪くなったりを繰り返します。…焦らないでくださいね。今日悪いのが突然、明日に治るわけじゃないんですから。』

 

私は馬鹿だ。
自分の感情を優先して。

 

 

…いろいろ考えてくれて、必要だから先生は言ってくれてるのに。

 

 

私は先生に命を助けられた身体。

『信じてください』

佐々岡先生の声が、頭の中でコダマする。

 

 

…はい。

 

 

信じたい。

私は一人じゃ歩けない。
一人じゃ生きられない。
 

 

信じないと歩いていけるはずがない。

信じます…
だから身体を元通りにしてください。

元の小林裕に…

どうか、戻してください…

私は決意をし、ゆっくりとナースコールのスイッチを押した。

 

 

 

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